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維新前 沼津香陵絵図(古地図)

維新前 沼津香陵絵図

これは何かと言うと、沼津市の前身、沼津藩があった頃の地図。

東海道の宿場町だった沼津なので、東海道が街中を通っていた。

中心部に人口約2000名。

江戸時代後期の人口分布、職業分布も残っている。

 

東海道と沼津宿
1.沼津宿の成立
 
・慶長6年(1601)徳川家康東海道の各宿に伝馬の定めを出す。   
ア. 宿には伝馬36疋を常置すること
イ. 馬数1疋につき居屋敷30坪の地子(屋敷にかかる税)免除する
ウ. 伝馬1疋の積荷は30貫以下とする など5ヶ条の定めを出した。
  
これにより沼津宿は東海道12番目の宿駅として、川湊から発達した沼津が本町中心に、市、湊、宿の機能をもって交通流通の拠点として発展してゆく。

 ・寛永15年(1638)には常備人馬は100人100疋となる。

2.一里塚と掃除丁場
・慶長9年(1604)家康は東海道東山道北陸道に一里塚を築かせた。
  道路両脇に五間四方に高さ3メートルの盛土をして、その上に松や榎を植えた。
  里程の目安や馬や駕籠の乗り賃の目安となった。
 
・沼津では日吉村と松長村、原西町に設けられた。
 ・一里塚の維持管理や、往復道の整備の為に各村に掃除丁場が割り当てられた。
  沼津3町は自分たちで行った。

3.沼津の城について
ア.三枚橋城は
 ・天正7年(1579)武田勝頼三枚橋城を築く。城将は高坂源五郎
 ・天正10年、徳川家康の臣松平康親が三枚橋城主になる。
 ・天正18年、秀吉は小田原の北条氏を倒し、天下統一すると中村氏次を城主とする。
 ・慶長5年(1600)関ヶ原の戦で徳川家康勝利すると、翌年大久保忠佐を城主とする(2万石)。
 ・天正18年(1613)忠佐が亡くなると後継ぎなく、城は廃城となる。
 ・寛永18年(1641)城跡の屋形が火事で焼失、以後田畑になる。
  ※城下町としての側面は失われ、宿場町として本町中心ににぎわう。

 イ.沼津城は安永6年(1777)水野忠友が2万石の大名として沼津藩の成立。
   城を築く。
  二代目忠成のときに5万石。
  八代目忠敬の時に明治維新で、菊間(千葉県)へ移る。
  沼津は静岡藩の支配となる。
  明治4年7月の廃藩置県静岡県となる。

4.沼津宿の内容
その1:範囲・・・三枚橋・上土・本町
 ・文化3年(1806)成立の「東海道分間延絵図」より見ると
  日吉村との境の浪人川の橋~狢川に架かる札辻橋~下町~川廓町~上土町~通横町~上本町~下本町~浅間町~出口町~草刈川の橋まで20町35間(2.2キロ)。

 その2:元禄元年(1688)作成の「沼津宿絵図」によると
三枚橋町 77軒 ・上土町 120軒 ・本町 313軒 ・合計510軒
 ・本陣 2軒 ・脇本陣 4軒 ・旅籠78軒 ・茶屋13軒
 ・510軒中 220軒 伝馬役 ・186軒 人足役 ・85軒 船役を勤める。

 その3:三町の構成
  ・安永7年(1778)の三町の構成

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 沼津三町の構成
 その4:「東海道宿村大概帳」によると、天保14年(1843)には
    宿内人別・・・男2663人 女2683人 計5346人
    宿内惣家数・・・1234軒 内 本陣3軒、脇本陣1軒、旅籠55軒

 ・本町は、延宝検地(1673~1681)ころは上本・下本・通横・魚町・仲町・くまたか町・新町・下小路・宮町・下河原・出口・浅間の12か町、幕末から明治にかけて、大門・東宮後・栄町・市道(五反田)・沼津新田が加わり18か町となる。
    多くの御用商人や旅籠、神社の存在。
 ・上土は、上土・川廓・志多・新裏・八幡・七反田の6か町。
 ・三枚橋は、三枚橋・平・新田の3か町。
 ・城内(明治5年にできた町)は条内・追手・片端・添地・町方・西條の6か町。

 その5:旅籠・本陣について
 ・天保年間(1830~1844)には旅籠55軒、大旅籠は上本町の元問屋、新問屋、下本町の藤田屋など18軒、間口6間~10間、玄関有。中旅籠21軒、小旅籠は16軒。
   平屋や二階屋。

 ・本陣・脇本陣は幕府の役人や、大名の宿泊施設、帯刀許可。
  天保年間には下本町の清水(281坪)・間宮(242坪)、上本町の高田(174坪)の3軒。
  脇本陣は上本町の中村(とらや)の1軒で建坪151坪。
  平屋・上段の間などあり。
  (脇本陣には玄関や門のない家とか二階屋などがあった。)

 その6:「御大名帳」(沼津宿本陣清水屋)寛文10年(1670)によると、
 ・寛文10年、大名や諸家の清水本陣利用回数は130数回で、9割は宿泊している。
 ・通行の用向きは参勤交代や大坂城・二条城・駿府城の城番の交替、幕府の使い等。(「沼津市史通史編 近世」より)

 その7:問屋場
 ・通横町に置かれ、本町・上土・三枚橋が1ヶ月を10日ずつに割って勤めた。
 ・「東海道宿村大概帳」(天保14年 1843)によると
   問屋場3人・年寄5人・帳附6人・馬指3人・人足指3人・馬呼1人がおり、日々、問屋1人・年寄1人、帳附2人・馬指1人・人足指1人・馬呼1人が勤めたとある。
 ・慶応4年(1868)「上土町明細帳」によると
  日々、問屋1人、年寄2人、勘定番1人、帳付1人・馬指2人・人足指2人・下働きの者2人が勤めた。

 

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古地図だとピンとこないから現代の地図にあてはめてみた。

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ここが中心部で、中心部以外は村。現在でいうと沼津駅から南側。現在の橋でいうなら永代橋までが中心地。(絵図の時代にはまだない)

永代橋が魚市場だった。

現在は沼津港が魚市場。

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これが現在の中心部。

赤い線が東海道

水神社がある通りが遊郭、水神社ってそういうことか?

本町郵便局のある通りに大名などが泊まる本陣があった。

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